無償の愛はホントに無償なのか!? 気になったので考えてみた。
はじめに
どうもみなさん、MSと申します。
先日メディアで「無償の愛」という言葉を耳にし、
よく聞く「無償の愛をあげられるのは親くらい」という、
一見定説のような言葉に対して「ほんとに無償なのかな?」と直感的に疑問に思った事がきっかけでした。
今回あらためて深く考えてみると、今までは思いもつかなかった面白い答えが見えてくる気がして、このテーマについて考えてみることにしました。
さて、この定説ともいえる言葉は本当に正しいのでしょうか。
親の愛は、本当に無償なのでしょうか。
それとも実は、何かを受け取っているのでしょうか。
これまで深く考えたことはありませんでしたが、この機会に一度、自分なりに納得できる答えを探してみたいと思います。
答えや形がない物。すなわち概念だからこそ、「自分が一番納得できる定義と言語化」をここでのゴールにしたいと考えています。
自分自身「考えるって楽しい」「新しい知見を知る事は楽しい」――そんなスタンスで書いています。
どうぞお気軽にお読みください。
まずは定義から考えていきます。
ここでの無償の愛の一般的な定義。
無償=報酬・対価を求めないこと。
愛=深く相手を大切に思う気持ち。相手の存在や幸福を、自分の価値として大切に思うこと。
無償の愛=相手からの利益・感謝・見返りを求めずに与える愛情、ということになります。
次は自分の経験則から考えて行きたいと思います。
自分の経験則からの視点
これを無償の愛と呼ぶのだろうな、という経験から
考えるてみる事にしました。
私には愛猫がいます。
この子がご飯を美味しく食べていると、本当に嬉しい。
この子がリラックスして寝ていたら、本当に嬉しい。
この子が体調悪そうなら、私も本当に辛い。
この子がケガをして痛そうなら、私も本当に辛い。
この子が快適に過ごせるように、想像しながら先回りして整える。
などなど多岐に渡ります。
恐らくこれが一般的に言う無償の愛と呼べるものだとは思いますが
本当に無償なのでしょうか?
そう思い色々調べていく中、しっくり来た言葉がこちら。
「自己拡張された愛」
「自他境界が重なる愛」
もうすこし分かり易く言うと
「存在の共有」「存在の共鳴」という言葉が、一番分かりやすく腹落ちする表現だなと思いました。
存在の共有=ただそこに存在していること自体を肯定している状態。
存在の共鳴=お互いの存在そのものが響き合い、相手の神経系と自分の神経 系が繋がっているかのような感覚。
と言う風に、ここではこういう定義とします。
ここで一応 自己犠牲と無償の愛との違いについて考えておく。
考えるまでも無いかも知れませんが
一応ここをハッキリさせたいと思いました。
自己犠牲と無償の愛の決定的な違い。
それは
「自分の心のコップが満たされているか、減らされているか。もしくは減らないが増えない状況」 (コップ理論と勝手に命名(笑)) だと考えます。
自己犠牲
自己犠牲の3要素(コップ理論)
非対称性(減る一方) 相手や対象(仕事・目標)は満たされるが、自分のコップの水位は確実に下がっている状態。
給水の停止(自愛の欠如) 自分のコップを満たす作業(休息、喜び、適切な報酬)を後回し、あるいは「悪」として禁止している状態。
生存戦略としての破綻(持続不可) 水位がゼロ(空)になれば、そもそも他者に与えることも、自分を維持することもできなくなるという「自滅」を抱えている状態。
結論
「自己犠牲とは、自らの枯渇(持続不可)を前提とした資源の譲渡」
無償の愛(コップ理論)
無限の給水(与えても減らない) 自分のコップの底に「無限に湧き出る水源」がある状態。相手に与えても、その瞬間に内側から満たされるため、水位が下がらない。
非枯渇性(持続可能) 「減る」という概念がないため、相手の見返りや反応に左右されず、永遠に与え続けることができる。
自己完結(喜びの循環) 「与えること自体」が自分を潤す給水作業になっている状態。相手が満たされる姿を見て、自分のコップもさらに溢れるというポジティブなループ。
こういう対比となります。
そして話は戻ります。
「存在の共有」「存在の共鳴」
それはどういう状況で発動するのか。
「存在の共有・共鳴」になるトリガー
反復ケア
毎日の世話、食事、健康管理、看病。「守る責任」が続くと、相手を自分の一部として認識する。
長い時間の共有
同じ空間で生活し、習慣を共にする。脳が家族として分類する。
感情の同期
一緒に喜び、落ち着き、遊び、休む。相手の感情が自分の感情と連動する。
依存される経験
相手が自分を頼る、待つ、求める。ケア回路が固定される。
ケア回路とは、人間の脳(哺乳類の脳)には、自分より弱い存在を世話し、守ることで幸せを感じるホルモン(オキシトシン)が分泌される仕組みが備わっている、という考え方です。
この「頼られる → 世話をする → 相手が満たされる → 自分も幸せを感じる」
という道筋が何度も繰り返されることで、脳の中に太いパイプ(回路)が出来上がります。これが「ケア回路が固定される」という状態です。
危機や心配の体験
病気、体調不良、事故の心配。このとき一気に絆が深まる。
無条件の関係
評価、損得、競争がない。存在そのものが価値になる。
世話を続け、時間を共有し、感情が同期し、危機を乗り越えた相手は、自分の一部として感じられるようになる。
同一化された愛(自己と他者の境界が溶けた愛)
相手が「別の存在」ではなく、自分の一部として感じている状態。
だから、
相手が嬉しい → 自分が嬉しい
相手が苦しい → 自分が苦しい
これは見返りでも、単なる共感だけでもなく、「存在の共有・共鳴」と言うことらしいのです。
そこで疑問がわきます。ふつふつと。
私は愛猫から何も得ていないのか?
何かしらの報酬は得ているのではないか?
無償の愛からの報酬
そうなんです。実は報酬は得ています。
でもそれは「交換」ではなく「共鳴」です。
愛猫が嬉しそうだと、私も嬉しい。
体調が悪いと、私もしんどい。
これは共感の仕組みで、脳のミラーニューロン系が活動し、オキシトシンなどが分泌されるためです。
ミラーニューロンとは、前頭葉や頭頂葉の共感ネットワークで確認されている神経細胞で、他人の行動や感情を、自分の体験のように反応させる働きがあります。
オキシトシンは、愛着や信頼、安心感に関係するホルモンです。
さらに、ドーパミン(動機や報酬感)、セロトニン(安定)なども関わり、相手の幸せが自分の幸せとして感じられる仕組みが脳に備わっています。
つまり、愛にはちゃんと“報酬”が存在するのです。
でも大事な違い。
ビジネスの報酬 → 商品やサービスを渡し対価を得る。
愛猫との関係 → 与えること自体が喜び。
ここが違います。
よって
「無償の愛とは、見返りが無いことではなく、相手からの見返りを目的としない愛である 自己完結型の愛と言う事になります。」
なぜ、人や動物はそう思うのか?
もうお分かりの方も多いとは思いますが
かなりの部分は「脳の仕様」らしいのです。
ただし、脳+進化+学習+価値観が合わさった結果です。
人は“つながると生き残れる”と思うように進化した。
これが根本であり現段階の答えの様です。
親子・仲間・家族がいないと、恐らく人類は絶滅していました。
だから脳は
他者を自分の一部として感じる回路
を持っている。
生存戦略。
そうならざるを得なかった。
もしくはそう進化した方が都合が良かったと言う事なんだと思います。
共存を支える脳内回路と分泌物質
(コップ理論に添えて)
共感回路
(ミラーニューロン) 物質:エンドルフィン
相手の状態を自分にコピーする。相手が癒やされると、自分も安らぎを感じて水位が相手と同期する。
愛着回路
(オキシトシン)
安心と信頼を強化する。交流で分泌され、自分と相手のコップを繋ぐパイプを太くする。
報酬回路
(ドーパミン)
相手を守ることに快感を与える。世話や貢献が自分への給水作業になり、脳が継続を促す。
安定回路
(セロトニン)
相手を自分の一部として認識し、精神を安定させ、コップの水位を静かに保ち続ける。
結論
もし「自分も満たされているなら無償の愛ではない。」と言うなら、この世に無償の愛は存在しません。
しかし「条件や見返りを付けない自己完結型の愛」を無償の愛と定義するなら、それは確かに存在します。
親の愛も、完全なゼロリターンではありません。
子の成長を見る喜び、存在意義、血の連続性への安心、守れたという充足感。
これらは経済的見返りではありませんが、心理的な自己完結型の報酬です。
つまり、無償とは「リターンがゼロ」であることではなく、
リターンを条件にしないことです。
さらに踏み込めば、人は何も得ない愛を持つことはできません。
愛した瞬間、脳は報酬を返すように設計されているからです。
オキシトシンや安心感は、勝手に生まれます。
完全に何も得ない愛は、生物学的には存在しません。
したがって、無償の愛とは、内なる報酬の循環によって成り立つ愛である。
これが、私の最終結論です。
以上となります。
最後に
皆様、ここまでお読み頂きありがとうございました。
「無償の愛」とは概念であり 私含めふわっと使っていた言葉だったと思います。今回の様にふわっとした概念をしっかり定義してみる。
その作業自体意味が有るのではないかと勝手に思っております。
私の説明には様々な見方があると思いますが、最終的にこの結論に至り
自分なりの言葉で形にできたことに対し大きな納得感を得ています。
そして、もしあなたの答えと違っていたとしても、それはそれでまた一つの答えなんだと思います。
ふと気になったことを「なぜだろう?」「本当にそうなのか?」と考えてみるだけでも、思った以上に楽しいものでした。
そして、こうして長い文章を書ける場所があり、それを誰かに読んで頂ける場がある――
それだけで、楽しさは何倍にもなることを改めて感謝しております。
よろしければ、またお付き合い頂けると嬉しく思います。
それでは、また。
MS
