幸福論・考え方・思考

世阿弥『風姿花伝』に学ぶ、一生伸び続ける人の7つの考え方

世阿弥『風姿花伝』に学ぶ、一生伸び続ける人の7つの考え方
MS|自由持ちラボ

どうも皆様、MSと申します。

さあ、今回はですね。

世阿弥『風姿花伝』に学ぶ、
「一生伸び続ける人の7つの考え方」を
書いていこうと思います。

そもそも、
成長し続ける人とは
どんな人なのか?

この素朴な疑問が、
今回の記事の始まりです。

みなさんは、
成長し続ける人とは
どんな人間だと思いますか?

才能がある人でしょうか。

努力を続けられる人でしょうか。

それとも、好奇心旺盛な人でしょうか。

もちろん、
どれも大切だと思います。

ただ、
長い人生で考えてみると、
それだけでは説明できない気がします。

若い頃に一気に伸びても、
途中で成長が止まってしまう人もいる。

その一方で、
年齢を重ねても学び続け、
少しずつ深みを増していく人もいる。

では、
なぜ多くの人は
どこかで学ぶことをやめ、
技術を磨くことを
やめてしまうのでしょうか。

理由は、
ある意味とても単純です。

向上させなくても、
事足りるようになるからです。

仕事もできる。

生活もできる。

困ることも、不満も
それほどない。

一定のところまで行けば、
昨日と同じ自分でも
生きていけるようになる。

これは事実です。

だからこそ、
そこから先も伸び続ける人は
多くはないのだと思います。

では、
それでも成長を止めない人は、
何が違うのでしょうか。

そのヒントを、
600年以上前に考え抜いた人物がいます。

世阿弥です。

ただの名役者ではありません。
成長についてかなり深く
考えていた人物です。

実際に『風姿花伝』を読んでみると、

「これ、能の話というより、
現代の成長論では?」と感じる部分が、
驚くほどたくさんありました。

それが今回、
この記事を書こうと思った理由です


世阿弥から、そのヒントを
7つ拾っていこうと思います。

楽しんでいただければ幸いです。

それでは、
いっきましょーーー!!




まずは世阿弥について


世阿弥は、1363年ごろに生まれました。

父は猿楽師の観阿弥で、
少年時代から舞台に立っていました。

12歳ごろには、
足利義満に才能を見いだされており、
父とともに猿楽を発展させ、
現在につながる能の形をつくっています。

演者だけでなく、
脚本や演出、芸の理論
まで手がけ、
『風姿花伝』などを残し、
1443年ごろに亡くなったとされています。

つまり、
演者として一流になるだけじゃなく、

脚本を書く。演出する。
芸を磨く。理論にする。後世に残す。

しかも残したのは、
能の技術だけではありません。

最高権力者に認められ、
文化人にも評価され、
その思想は600年以上残り、
今では芸術だけでなく、
仕事や経営の世界でも読まれ続けています。

世阿弥のすごさは、
時代を超えて評価され続けていることです。

つまり世阿弥は、能の天才というより、
「成長する人間」を研究した天才という位置づけとなります。






1.初心は、一度ではない


世阿弥の有名な言葉があります。

「初心忘るべからず。」

今では、
「始めた頃の謙虚な気持ちを忘れないようにしよう」
という意味で使われることが多い言葉です。

ですが、世阿弥のいう「初心」は、
それだけではありません。

若い頃には、若い頃の初心がある。

年齢を重ねれば、
その時点でまた新しい初心がある。

つまり、

人は、次の段階に進むたびに、
もう一度初心者になります。

仕事を始めたとき。
部下を持ったとき。
独立したとき。
新しい分野に挑戦したとき。

立場が変われば、
求められるものも変わります。

昨日まで通用していた経験が、
そのまま今日も通用するとは限りません。

そして世阿弥は、
過去の初心も忘れるなと言っています。

なぜなら、
昔できなかったことを忘れると、
今できていることを
当たり前だと思い始めるからです。

すると、
自分がどこでつまずいたのか。
何を覚えて伸びたのか。
その過程まで見えなくなります。

初心を覚えている人は、
自分の成長を振り返れます。

そして、
初心者だった頃の人の気持ちも分かります。

だから「初心忘るべからず」は、
ただ謙虚でいよう、という話ではありません。

過去の未熟さを忘れず、
新しい未熟さも受け入れる。

その両方があるから、
人は成長を止めずにいられるのだと思います。




2.若さの勢いを、実力と勘違いしない


世阿弥には、「時分の花(じぶんのはな)」
という有名な考え方があります。

若い頃には、若さそのものが魅力になります。
勢いがある。新鮮さがある。周りから注目される。

すると人は、「自分には才能がある」
と思ってしまいます。

でも世阿弥は、
それを本当の実力とは考えませんでした。

その時期だから咲く花。
それが「時分の花」です。

若さや流行によって得られる評価は、
やがて失われる可能性があります。

だからこそ、一時的な成功に満足せず、
年齢や環境が変わっても残る実力を育てる。

世阿弥はそれを、「まことの花」へ
近づく道として考えました。

では、まことの花とは何なのか。
世阿弥は『風姿花伝』の最後の巻で、
こう定義しています。

まことの花は、咲く道理も散る道理も、
心のままなるべし。されば、久しかるべし。

訳:本物の花は、いつ咲かせるか、
いつ引っ込めるかを自分で決められる。
だから長く続く。

時分の花は「咲いてしまう」花です。
まことの花は「咲かせられる」花です。
違いは華やかさではなく、自分で操れるかどうか。
それだけです。

では、どうすれば咲かせられるようになるのか。
その答えは、6で書きます。

その前に、
時分の花が消えたあと、
人はどう戦えばいいのか。
世阿弥は、それを年齢ごとに書き残しています。





3.年齢によって、戦い方を変える


世阿弥が面白いのは、
「若い頃と同じことを、一生続ければいい」
とは考えていないところです。

『風姿花伝』の最初の章は、
7歳から50歳過ぎまで、
年齢ごとに「今は何をすべきか」を書いたものです。

いくつか拾ってみます。

12〜13歳。
何をやっても可愛らしく見える。
でもそれは、2で見た「時分の花」で、
本当の実力ではないと、もう釘を刺しています。

17〜18歳。
声変わりで声が出ない。
体つきも変わって、
子どもの頃の花は全部消える。

世阿弥はここを「一期の境」、
一生の分かれ目と呼びました。

ここでやめる人は、そこで終わる。
だから人に笑われても、
黙って稽古を続けろ、と書いています。

24〜25歳。
声も体も安定して、周りに褒められ始める。
一番危ない時期です。
「自分はもううまい」と思った瞬間に、
そこから伸びなくなる。

34〜35歳。
ここが頂点。
この年までに評価が固まっていなければ、
その先は難しいと、はっきり書いています。

44〜45歳。
ここから戦い方を変える。
派手な演目は若い人に譲る。
自分の隣に、いい若手を置く。

50歳を過ぎたら。
「何もしない」以外に手はない、と言い切ります。
それでも、本物の花を持つ人には、花が残る。

実際、平均寿命が延びている現代では、
少し感覚が違うと思います。
それでも、ここから得られることはあります。

若い頃には、若さの良さがある。
年齢を重ねれば、
経験や深みという別の良さが出てくる。

つまり、年齢によって強みは変わる。

若い頃の武器にしがみつくのではなく、
その時々の自分に合った戦い方を考える。
これは現代でも同じだと思います。

20代と50代で、
同じ体力を競う必要はありません。

経験。判断力。人を見る力。
積み上げてきた知識。
年齢とともに増える武器もあります。

成長とは、昔の自分を維持することではありません。
その時の自分に合わせて、
形を変えていくことなのだと思います。

世阿弥の父、観阿弥の話があります。

観阿弥は52歳のとき、
駿河の浅間神社で舞い、
その半月後に亡くなりました。

その舞台で観阿弥は、
派手な演目は若い人に譲り、
無理のないところだけを、少しずつ演じたそうです。

それでも、花はますます見えた。

世阿弥はそのときの父を、
「老木になるまで、花は散らで残りしなり」
と書いています。

年齢とともに武器を変えても、
花は消えない。

むしろ、変化し続けたから残った。

そういうことなんだと思います。




4.我見と離見。自分を、自分の外から見る


世阿弥には、「離見の見(りけんのけん)」
という考え方があります。
簡単に言えば、自分を、観客の側から見る。

『花鏡(かきょう)』という本に、こう書かれています。

離見の見にて見る所は、
すなはち見所同心の見なり。

訳:離見の見で見るとは、
客席と同じ心で自分を見ることだ。

そして、自分の目で見るのと、
客席から見るのは別物だと、はっきり分けています。

見所より見る所の風姿は、我が離見なり。
我眼の見る所は我見なり。離見の見にはあらず。

訳:客席から見える自分の姿が「離見」だ。
自分の目で見ているものは「我見」であって、
離見の見ではない。

自分では、「うまくできている」と思っていても、
相手にはそう見えていないことがあります。

話している本人は分かりやすいつもりでも、
聞いている人には分からない。

商品を作った本人は良いと思っていても、
お客さんには魅力が伝わらない。

文章を書いた本人には面白くても、
読者には伝わらない。

なぜ自分では見えないのか。
世阿弥は「後ろ姿」を例に出します。

自分の後ろ姿は、自分には見えない。
だから後ろ姿を知らない演者は、
自分の姿のどこが野暮なのかが分からない。

客席にはその後ろ姿がそのまま見えているのに、
本人だけが知らない。

そのために世阿弥が勧めたのが、
「目前心後(もくぜんしんご)」です。

目を前に見て、心を後ろに置け。


目は舞台の前を向いている。
でも心は客席に置いて、そこから自分を見ている。
この二つを同時にやれ、というのです。

成長するには、自分の視点だけでは足りません。

「自分はどう見えているか」を見る必要があります。

これは仕事でも、商売でも、
発信でも同じです。

では、具体的にどう見るのか。

世阿弥がやったのは、単純なことです。
舞台に立つ前に、客席に座る。

稽古では、自分の動きを一つずつ切って、
「これは客席からどう見えるか」と問う。
つまり、見る側を一度やってみる。それだけです。

今の仕事に置きかえると、こうなります。

一、自分の作ったものを、
時間を置いてから受け取る側で見る。


書いた文章は一晩寝かせて、
翌朝、読者として読む。

作った商品は、自分の店の商品ページを
客として開く。
動画は、自分のチャンネルを
初めて見る人のつもりで再生する。

作った直後は、頭の中の
「つもり」が邪魔をして、
我見でしか見えません。
時間を置くと、後ろ姿が見え始めます。

二、相手の行動を、言葉より信じる。

「良いですね」という言葉は、
我見を補強するだけです。
見るべきは行動のほうです。

最後まで読まれたか。
買われたか。何秒で離れたか。
世阿弥にとっての客席のざわめきが、
今の数字です。
数字は嘘をつきませんが、
自分の感想は嘘をつきます。

三、分かっていない人に見せる。

自分と同じ知識を持つ人は、
自分と同じ我見を持っています。

何も知らない人に見せて、
どこで首をかしげるかを見る。

世阿弥は、目の肥えた客より、
何も知らない客に受けるかどうかを重く見ました。

知らない人がつまずく場所こそ、
自分では見えていない、一番雑な部分だからです。

四、自分の言い訳が出た瞬間を疑う。

「今回は相手が悪かった」
「たまたま条件が合わなかった」。

そう思ったときは、たいてい我見が勝っています。
離見なら、相手がそう受け取ったという
事実だけが残るはずです。

我見は、放っておいても働きます。
相手から自分を見る目は、
意識して席を移らないと働きません。

だから世阿弥は「心を後ろに置け」と
言い方を変えてまで、
何度も説いたのだと思います。





5.下手な人からも学ぶ


世阿弥には、こんな考え方もあります。
「上手は下手の手本、下手は上手の手本。」

うまい人から学ぶ。
これは誰でも分かります。
でも、下手な人からも学ぶ。
ここが面白いところです。

うまくいかない姿を見ると、
「なぜうまくいかないのか」が見えてきます。

説明が長すぎる。相手を見ていない。
基本を飛ばしている。焦っている。

自分では気づきにくい失敗も、
他人を見るとよく分かります。

世阿弥は、そこからもう一歩踏み込みます。

「人の悪いところを見るのでさえ、
自分の手本になる。ましてや良いところなら、
なおさらだ。」

下手な人の失敗は、自分の失敗の鏡です。

「あの人、説明が長いな」と思ったとき、
自分も同じことをしていないか。
人の欠点が目につくのは、たいてい自分にも
同じ癖があるからです。

もうひとつ、世阿弥は意外なことを言います。

下手な人にも、必ず良いところがある。
それを上手な人が取り入れれば、
最高の境地に届く、と。

下手な人には、上手な人が失ったものが
残っていることがあります。

必死さ。素直さ。手を抜かない一生懸命さ。
慣れた人ほど、知らないうちにこれを落としています。

では、なぜ上手な人は下手から学べなくなるのか。

世阿弥の答えは「上慢」、つまり慢心です。
上手であっても、おごりがあれば芸は下がる。
彼はそう書いています。

「あの人は下手だ」と決めた瞬間、
その人から学ぶ道は閉じます。

つまり、下手を見下すことは、
自分の成長を自分で止めることなのです。

だから、「あの人は下手だ」で終わらせない。
そこから何を学べるかを見る。

失敗からは「自分もやっていないか」を。
良いところからは「自分は失っていないか」を。

誰からでも学べること。
それが、成長し続ける人の条件だと思います。





6.花は心、種は態


ここまで、成長し続ける人の考え方を見てきました。

では、何を伸ばせばいいのか。

2で残した問いに戻ります。
どうすれば、花を咲かせられるようになるのか。

世阿弥の答えは「種を増やせ」でした。

花を知らんと思はば、まづ種を知るべし。
花は心、種は態(わざ)なるべし。

訳:花を知りたければ、まず種を知れ。
花は心の働きで、種は身につけた技だ。

ここでいう「態」は、
長い稽古の中で身につけた
技術や型のことです。

能でいえば、演じられる演目の数です。
種を多く持っていれば、客が飽きた瞬間に別の花を出せる。

どれを、いつ出すかを選ぶ心が「花」。

選べる引き出しの多さが「種」。

種がなければ、花は咲きません。

つまり、
人の心を動かしたいと思っていても、
それを表現する技術がなければ、
相手にはうまく伝わらないということです。

これは、仕事やスポーツなど、
あらゆることに通じる話だと思います。

「気持ちはある」
「伝えたいこともある」

それだけでは、
届かないことがあります。

だからこそ、
まず技術を磨く必要がある。

一度うまくいったことより、
なぜうまくいったのかを理解し、
もう一度再現できる力に変える。

それを知ることが、
初めの第一歩なんだと思います。

ただし、
世阿弥が面白いのは、
技術そのものを
「花」とは言っていないことです。

花は、心。

ここでいう心は、ただ「気持ちが大事」
という話ではありません。

身につけた技を、どう使うのか。

どう見せるのか。どう伝えるのか。
相手に何を感じてもらうのか。

そうした、
技を生かす心の働きまで含めて、
世阿弥は「花」と考えました。

どれだけうまくても、
どれだけ正確でも、
それだけで人の心を動かせるとは限りません。

種を育て、そこに心が加わって、
はじめて花が咲く。
つまり、技術は必要です。

でも、技術を身につけること自体が
最終目的ではないのです。

その技術を通して、
相手の心まで届いて、
はじめて「花」になる。

気持ちだけでも足りない。
技術だけでも足りない。

技を磨き、
心で生かす。

その両方がそろったとき、
人の心を動かす「花」が咲く。

世阿弥は、
そんなことを考えていたのだと思います。




7.「稽古は強かれ、情識はなかれ」


では、どうやって伸ばすのか。

ここまでは、考え方の話でした。

でも世阿弥は、考え方だけの人ではありません。
『風姿花伝』の一番最初に、こう書いています。

「稽古は強かれ、情識はなかれ」
稽古は厳しく。慢心はするな。

世阿弥の成長論は、結局ここから始まります。
そして、稽古の中身についても書いています。

「物数を極めて、工夫を尽くして後、
花の失せぬところを知るべし」

まず、数をこなす。
そのうえで、工夫を重ねる。

その先で初めて、
消えない花がどこにあるか分かる。

この順番が大事なのです。
工夫は、数をこなした後に来る。

数もこなさないうちに
「自分のやり方」を探しても、
見つかることはありません。

もう一つ。
世阿弥は、調子には波があると言います。

「男時(おどき)・女時(めどき)」
性別の話ではなく、
当時の陰陽の言い方で、陽が男、陰が女でした。

勢いのある時と、
何をやってもうまくいかない時。

これは実力とは関係なく、必ず交互に来る。

だから、うまくいかない時に無理をしない。

力をためて、次の勢いが来た時に出す。

伸び続ける人は、
伸びない時期は必ず来ることを知っていて、
なおかつその状態でも、焦る必要が
ないことも知っている。

そういうことなんだと思います。

厳しく稽古する。数をこなす。工夫する。波を知る。
世阿弥の成長論は、ここまで含めて一つです。






成長とは、完成しないこと。


私たちは、成長すると聞くと、
何かができるようになることを考えます。
知識が増える。技術が上がる。収入が増える。

もちろん、それも成長です。
でも世阿弥の言葉を読んでいると、
もう一つの成長が見えてきます。

それは、
自分はまだ途中だと知り続けること。

初心を持つ。
今の成功を実力だと決めつけない。
年齢とともに変わる。
自分を外から見る。
誰からでも学ぶ。
技を磨き、心で生かす。
稽古をやめない。

成長し続ける人は、
完成した人ではありません。

むしろ、
自分のことを完成したと
思わない人なんだと思います。

世阿弥は『花鏡』に、こう書いています。

「命には終りあり、能には果てあるべからず」

命には終わりがある。
でも、能に行き止まりはない。

伸びるのをやめる理由は、
どこにもないということです。

600年前に書かれた芸の教えが、
今でも残っている理由が、少し分かる気がします。

世阿弥が語っていたのは、
能の上達だけではなく、
人が一生かけて伸び続けるための知恵
なんだと思います。


以上となります。

いかがだったでしょうか?
この記事が少しでも役に立ったのであれば
嬉しく思います。

それではまた別の記事で!


MS




参考文献・参考資料

世阿弥『風姿花伝・花鏡』小西甚一 編訳、たちばな出版。





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