「自由持ち」を考えていたら、2000年前に沢山先客がいた。 『古典から学ぶ自由持ち』
どうも皆様、MSと申します。
さて今回は、
「自由持ち」を考えていたら、
2000年前に沢山先客がいた。
古典から学ぶ「自由持ち」
というテーマで書いていきます。
今回は満を持して古典紹介を
していきたいと思っております。
私自身古典は大好きでよく読むのですが
その理由を簡単に言うと
「何百年、何千年も残るだけの理由がある」
文章だからです。
ことわざにも
「温故知新」
という言葉があります。
昔のことを学び、
そこから新しい知識や
気づきを得るという意味です。
古典を読んでいると、
まさにこの言葉の通りだなと
感じることがよくあります。
何百年、何千年も前に
書かれた言葉なのに、
今の自分たちにもそのまま
当てはまることがある。
むしろ時代が違うからこそ、
余計なものが削ぎ落とされて、
人間の本質だけが見えてくる。
そんな感覚があります。
そこで改めて
感じたことがあります。
人間って、驚くほど昔から
同じことで悩んでいるということです。
そして、
それらの答えはもう既にある。
ということです。
お金が欲しい。
人より評価されたい。
失敗したくない。
誰かに勝ちたい。
将来が不安。
仕事がうまくいかない。
人間関係に疲れる。
もっと自由になりたい。
もちろん、当時と現代では
生活環境はまったく違います。
スマートフォンもなければ、
SNSもありません。
会社員という働き方も、
株式投資も、ネットショッピングも
ありません。
それでも、悩みそのものは
驚くほど変わっていないと
言えるかもしれません。
今回はそんな古典の言葉を、
単なる「昔の偉い人の名言」としてではなく、
現代を自由に生きるためのヒント
として捉えられる古典を
ピックアップして現代風にどう
解釈するかを考えて行きたいと思います。
答えが出ていることに時間を使わず
行動することでしか答えが出ないことに
大切な時間を使いたいですね!
それでは行っきましょー!
「足るを知る者は富む。」 老子
『老子』は、古代中国の思想家で、
その老子の考えをまとめた古典です。
争わず、無理をせず、自然に生きることの
大切さを説いています。
この言葉は、自由持ちには欠かせない
かなり重要な視点だと思っています。
初めて聞くと、
「欲張らず、今あるもので満足しましょう。」
という話にも聞こえます。
しかし、私は少し違う捉え方をしています。
人間の欲には、基本的に終わりがありません。
年収500万円になれば、1000万円欲しくなる。
5000万円になれば、次は1億円というふうに、
欲しかった物を手に入れても、
しばらくすれば慣れてしまい、
また別の物が欲しくなる。
これが人間の性というものです。
もちろん、上を目指すこと自体は
悪いことではありません。
私自身も、昨日より今日、今日より明日と、
少しずつ前に進んでいきたいと思っています。
新しいことにも挑戦したいし、
仕事も成長させたい。
欲しいものだってあります。
ただ、
「もっと手に入らなければ、私は幸せになれない。」
となってしまうと、話は別です。
1000万円になれば幸せになれる。
もっと評価されれば幸せになれる。
アレを買えば幸せになれる。
もっと成功すれば幸せになれる。
そうやって「幸せになる条件」を
未来に置き続けると、
その条件は永遠に更新されていく
可能性が高いです。
なぜか?
人は良いも悪いもすぐ慣れるからです。
一つ手に入れれば、また次が欲しくなる。
そして気づけば、
「もっと、もっと」と
追い続けることそのものが
人生になってしまう可能性があります。
これでは、どれだけ
持っていても満たされません。
これは、お金だけの話ではありません。
仕事、物、承認、社会的地位。
現代には「もっと欲しい」と
思わせるものが山ほどあります。
しかも厄介なのは、
上を見れば必ず自分より
持っている人がいることです。
比較を基準にしてしまえば、
終わりはありません。
だからこそ、
「もう十分持っている。」
と思えることは、ものすごく
大切なのだと思います。
これは、諦めでも妥協でもありません。
むしろ、
欲望に自分の幸福を支配されない
ための考え方です。
今持っているものに満足できれば、
「もっと手に入らなければ幸せになれない」
という条件からは解放されます。
そして、もう一つ大切なのが、
「それは本当に必要なのか?」
と自分に問いかけることです。
もっとお金が欲しい。
では、何のために必要なのか。
いくらあれば十分なのか。
もっと物が欲しい。
では、その物は本当に自分の
人生を良くしてくれるのか。
他人に羨ましがられたい。
などの見栄からくる「もっと」を
追いかけていると、
いつの間にか自分が欲しいものではなく
世の中から欲しいと思わされているものを
追いかけていることがあります。
必要なものを知る。
そして、必要ではないものまで追いかけない。
それだけでも、人生はかなり身軽になります。
「足るを知る」と「向上心」は両立できます。
今の自分に満足している。
でも、明日はもう少し良くしたい。
今ある生活に幸せを感じている。
でも、新しいことにも挑戦したい。
この二つは、決して矛盾しません。
「幸せになるために成長する」のではなく、
「今も幸せだけれど、成長することも楽しむ」。
この違いは、かなり大きいと思っています。
「もっと」を原動力にすることはできる。
でも、「もっと」に支配される必要はない。
足るを知りながら、前に進む。
私は、このバランスこそが
大切なのだと思っています。
「足るを知る者は富む。」
本当の豊かさとは、
たくさん持っていることだけではなく、
今あるものに満足し、
「これで十分」と
思えることなのだと思います。
今に感謝しながら、
それでも前へ進む。
そのくらいのバランスが、
ちょうどいいのではないでしょうか?
「自ら勝つ者は強し。」 老子
これも老子の言葉です。
他人に勝つ人ではなく、
自分に勝てる人こそ、本当に強い。
そしてこの言葉も、
現代にそのまま当てはまります。
自由というと、
「好きな時間に起きる。」
「好きな仕事だけする。」
「誰からも指示されない。」
そんなイメージを
持つかもしれません。
確かに、それも自由です。
しかし、
誰からも指示されなくなると、
自分で自分を
律さなければならなくなります。
今日は面倒だからやらない。
明日から頑張ろう。
もう少し寝よう。
欲しいから買ってしまおう。
腹が立ったから言い返そう。
自由になればなるほど、
こうした判断を止めてくれる人は
いなくなります。
つまり、
自由には、
自分を制御する力が必要になる。
ということになります。
自由と自制。
一見すると反対の言葉のようですが、
実は表裏一体なのではないでしょうか?
なぜなら、
自分を制御できなければ、
今度は自分の欲望や感情に
支配されるからです。
会社から指示されなくても、
「面倒くさい」に支配される。
お金に余裕があっても、
欲しいものを我慢できなければ、
消費に支配される。
時間が自由になっても、
目先の楽しさだけを選び続ければ、
そのうち確実に行き詰まります。
人間関係を選べても、
怒りを制御できなければ、
感情によって関係を壊してしまう。
外から自分を縛るものを
取り除くだけでは、
本当の意味で自由には
なれないということです。
外からの支配がなくなった後に、
自分自身をちゃんと律することができるか。
そこまで含めて、
私は自由なのだと思っています。
自制とは?
自制とは何でも我慢するのではなく、
「今これをやりたい。」
という短期的な欲求と、
「自分は将来どうありたいか。」
という長期的な意思がぶつかったとき、
自分にとって本当に大切な方を
自分の意思で選べること。
それが自制なのだと思います。
今日楽をすることもできる。
それでも、
未来のために少し仕事をする。
今すぐお金を使うこともできる。
それでも、
将来の選択肢を増やすために残しておく。
怒りをぶつけることもできる。
それでも、
一度立ち止まって考える。
誰かに強制されたからではありません。
自分で選んでいる。
ここが重要です。
自由とは、
欲望のままに生きることではなく、
自分が大切だと思うものを、
自分の意思で選び続けられること。
そう考えると、
老子のいう
「自ら勝つ者は強し。」は、
単なる精神論ではありません。
自由に生きるために必要な、
かなり実践的な考え方にも見えてきます。
ただ、
自分の人生のハンドルを、
自分で握っていること。
それが「自らに勝つ」ということ
なのかもしれません。
「上善は水の若(ごと)し。」 老子
またまたこれも老子です。
最高の善は、水のようなもの。
水は争わず、
低いところへ流れ、
それでも多くのものを
潤していきます。
私たちは「強い人」と聞くと、
競争に勝つ人。
前に出る人。
自分の意見を押し通せる人。
そんな人物を
想像しがちです。
ですが、
この教えは少し違います。
必ずしも、
真正面から戦う必要はないのです。
勝てない場所なら、
場所を変えてもいい。
自分に合わない環境なら、
離れてもいい。
正面からぶつかるのではなく、
横から流れていってもいい。
水は岩にぶつかった時、
無理やり岩を壊そうとはしません。
岩の横を通り、
隙間を見つけ、
時間をかけながら
先へ進んでいきます。
それでも最終的には、
川をつくり、
谷をつくり、
大きな景色さえ変えていきます。
強さとは、
いつも力で押し切ることではなく、
しなやかに形を変えながら、
それでも前へ進み続けること。
そんな考え方も
あるのだと思います。
戦わないことも、
一つの戦略です。
これは仕事でも
同じだと思います。
会社員が合う人もいれば、
独立が合う人もいる。
大企業が合う人もいれば、
小さな会社が合う人もいる。
一人で働くのが好きな人もいれば、
大勢で働くのが好きな人もいる。
安定した環境で
力を発揮できる人もいれば、
自由度の高い環境で
力を発揮できる人もいます。
人によって、
自然に力を出せる場所は違います。
それなのに、
周りがその道を選んでいるから。
世間では、
こちらの方が評価されるから。
なんとなく、
こちらの方が正しそうだから。
そんな理由だけで
自分に合わない場所に居続けると、
本来使わなくてもいいところで
力を消耗してしまいます。
大切なのは、
「どちらが正しいか」ではなく、
「自分はどこなら
自然に流れられるのか。」
ということなのだと思います。
水は場所によって
形を変えます。
器に入れば器の形になり、
川では川の形になり、
海では海水になります。
だからといって、
水でなくなるわけではありません。
私たちも同じで、
環境を変えることは、
自分を曲げることとは限りません。
むしろ、
自分らしく生きるために
環境を選び直すことは
正しい選択と言えます。
努力することは大切です。
ですが、
努力する場所を選ぶことも、
同じくらい大切です。
どれだけ頑張るかだけではなく、
どこで頑張るのか。
どこで戦うのか。
そして、
そもそも戦う必要があるのか。
そこまで考えてみると、
選択肢はかなり増える気がします。
自分に合う場所を選び、
無理に争わず、
それでも前へ進んでいく。
老子のいう「水の強さ」は、
今の時代にもかなり使える
考え方だと思います。
「窮すれば則ち変じ、変ずれば則ち通じ、通ずれば則ち久し。」易経
これは『易経』の言葉です。
中国最古の書物のひとつで、
五経の筆頭。
もとは占いの本でしたが、
後にさまざまな思想が加わり、
哲学書としても
読まれるようになりました。
要は、
中国思想の原点とも言える書物です。
その『易経』に、
「窮すれば則ち変じ、
変ずれば則ち通じ、
通ずれば則ち久し。」
という言葉があります。
簡単に言えば、
行き詰まれば変わる。
変われば道が開ける。
道が開ければ、長く続いていく。
という意味です。
これも、
ものすごく現代的な言葉だと思います。
何かがうまくいかないとき、
私たちはつい、
「もっと頑張らなければ。」
と考えます。
もちろん、
努力が足りない場合もあります。
もう少し続ければ、
結果が出ることもあります。
ですが一方で、
努力量ではなく、
やり方そのものが
間違っていることもあります。
同じ場所で、
同じ方法で、
同じ努力を繰り返す。
それでも結果が出ないなら、
必要なのは
「さらに頑張ること」ではなく、
変えることなのかもしれません。
仕事を変える。
やり方を変える。
住む場所を変える。
付き合う人を変える。
考え方を変える。
使う道具を変える。
時間の使い方を変える。
などが考えられます。
むしろ、
目的を達成するために
手段を変えることは、
とても合理的な判断です。
山頂を目指しているのに、
目の前の道が
崖で行き止まりになっていたら、
そこで何時間も崖を登ろうとするより、
一度戻って、別の道を探した方がいいと
いうことです。
目的は変えずに、手段を変える。
これも立派な前進です。
私たちは一度
「これでいく」と決めると、
その選択に
執着してしまうことがあります。
もちろん見極めは非常に難しい
場合もありますので慎重に
判断する必要はあります。
ですが、
ここまで時間を使ったから。
ここまでお金を使ったから。
今さら変えるのは
もったいないから。
そんな理由で、うまくいっていない方法を
続けてしまうこともあります。
過去にどれだけ
時間を使ったとしても、
これから先の時間まで
同じ方法に使う必要はありません。
大切なのは、
「今までどうしてきたか」より、
「これからどうするか。」
なんだと思います。
そして面白いのは、
『易経』は
ただ「変われ」と
言っているわけではないことです。
窮すれば変じ、
変ずれば通じ、
通ずれば久し。
つまり、
行き詰まりは終わりではなく、
変化が必要だというサインでもある。
ということです。
変えることで新しい道が生まれ、
その道が通れば、やがて長く続いていく。
そう考えると、
うまくいかないことも
少し違って見えてきます。
失敗した。行き詰まった。
思ったような結果が出ない。
そんなときに、
「自分には無理だった」と
すぐ結論を出すのではなく、
「何を変えればいいだろう?」と考えてみる。
この問いを持てるだけでも、
選択肢はかなり増えると思います。
昔の人たちも、
行き詰まったときには
「変われ」と言っています。
これは私自身、
とても大切にしている考え方です。
変わることを恐れてはいけません。
やり方の多くは、変えてみて、違ったら戻せば良いのです。
変化の多くは、思っているほど
不可逆ではないのです。
大切なことは、
何でも変えればいいわけでもない。
残すものは残し、変えるべきところだけを
変えていくそのバランス感覚。
そうやって少しずつ自分に合う形へ
修正していくことが、自由に生きる
人生においても大切なのだと思います。
「君子は和して同ぜず。」『論語』
これは『論語』の言葉です。
『論語』は、
孔子とその弟子たちの言葉をまとめた、
中国の古典です。
人との接し方や学び方、
生き方について説かれており、
日本でも昔から、教育や道徳の基本として
読まれてきました。
「君子は和して同ぜず。」は、
「立派な人は、人と調和して付き合うが、
何でも同じ意見になるわけではない。」
という意味です。
私はこの言葉が、
とても現代的だと思っています。
人間関係では、周囲に合わせることが
必要な場面があります。
仕事でも、
家庭でも、
友人関係でも、
自分の意見だけを
押し通していたら、
うまくいかないこともあります。
相手の考えを聞く。
譲れるところは譲る。
場の空気を読む。
そうしたことは、
人と関わって生きていく上で
大切なことだと思います。
ただ、
「人に合わせること」と、
「考えまで合わせること」は、
同じではありません。
周囲と仲良くするために、
自分の考えまで
すべて変える必要はありません。
みんながそう言っているから。
周りがそうしているから。
嫌われたくないから。
そうやって、
本当は違うと思っていることまで
無理に合わせ続けると、いつの間にか、
「自分はどうしたいのか。」
が分からなくなってしまいます。
人と違う意見を持つことは、
悪いことではありません。
価値観が違うことも、
当たり前です。
大切なのは、違う考えを持ちながらも、
相手を尊重できること。
そして、相手を尊重しながらも、
自分の考えを失わないこと。
このバランスなのだと思います。
「君子は和して同ぜず。」
この言葉は、
調和はする。
でも、同化はしない。
ということでもあります。
私は、
これは自由に生きる上でも
大切な考え方だと思っています。
自由というと、
好きなことだけをして、
誰にも合わせないことのように
思われることがあります。
でも実際には、
人と関わりながら
生きていく以上、
完全に他人を無視して
生きることはできません。
だからこそ、
周囲との調和を保ちながら、
自分の軸も持つ。
この両方が必要になります。
他人の意見を聞く。
良いと思えば取り入れる。
間違っていれば聞き流す。
でも、
多数派だから。などの理由だけで
従う必要はありません。
誰かに嫌われないために、
自分の価値観まで
曲げる必要は全くありません。
自分と違う考えを持つ人とも、
穏やかに付き合うことはできます。
それでも合わなければ、
適切な距離を取ればいいのです。
価値観が同じでなくても、
良い関係はつくれるのです。
周囲に合わせすぎれば、
自分を失う。
自分を通しすぎれば、
人との関係を失う。
そのどちらにも偏らず、人とは和する。
でも、自分まで同じにはしない。
約2500年前に孔子が残したこの言葉は、
今の時代にこそ、
必要な考え方なのかもしれません。
自分の軸を持ちながら、
他人も尊重する。
それもまた、
自由に生きるための
大切な知恵なのだと思います。
「勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求む。」『孫子』
これは『孫子』の有名な言葉です。
『孫子』は、約2500年前に書かれた
とされる世界的に有名な兵法書です。
戦争だけでなく、経営や交渉、
戦略の考え方にも応用され、
今でも読み継がれています。
無駄に戦わず、状況を読み、
勝てる形をつくってから戦うことの
大切さを説いています。
簡単に言えば、
「勝つ者は、勝てる状態を作ってから戦う。」
という考え方です。
私たちは何かに挑戦するとき、
とにかく頑張る。
人より努力する。
長時間働く。
そして勝つ。
という順番で
考えてしまいがちです。
もちろん、
努力は大切です。
しかし孫子は、
その前を考えています。
そもそも、
その戦いは勝てるのか。
どこで戦うのか。
誰と戦うのか。
どんな条件なら自分が有利なのか。
戦う前に、
できるだけ勝てる状態を作っておく。
これは現代でも、
かなり大切な考え方だと思います。
たとえば、
独立したいのであれば、
いきなり会社を辞めてから
何とかするのではなく、
会社員のうちに
小さく副業を始めてみる。
知識を身につける。
資金を作る。
実際に売上を作ってみる。
失敗しても生活できる状態を
先に作っておく。
そうすれば、
同じ「独立する」という行動でも、
戦い始めた時点での条件が
まったく違います。
これは投資でも、
仕事でも、商売でも同じです。
自分の苦手な場所で
強い人と真正面から戦うより、
自分の得意や好きな場所を探す。
小さく試してから、
うまくいったものを大きくする。
つまり、
努力量だけで勝とうとするのではなく、
努力が報われやすい場所を選ぶ。
これも立派な戦略です。
「努力すれば何とかなる。」
という考え方は、
私は嫌いではありません。
ただ、
努力することと、
闇雲に戦うことは違います。
人生で使える時間も、
お金も、体力も有限です。
だからこそ、
どこで頑張るのか。
何に時間を使うのか。
どの戦いには参加しないのか。
それを自分で決める。
戦わなくてもいい場所では、
戦わない。
戦うのであれば、
できるだけ勝てる状態を作ってから戦う。
ただ頑張るだけではなく、
勝算のある場所で戦う。
これも、
自由に生きるための
大切な考え方だと思います。
「広く人を愛し、互いに利益を与え合う。」(意訳)
墨子
墨子は、今から約2400年前、
中国の戦国時代に活躍した思想家で、
諸子百家の一人です。
孔子より少し後の時代に生き、
「墨家」と呼ばれる思想集団を築きました。
特に、
すべての人を分け隔てなく愛する
「兼愛」と、侵略戦争に反対する
「非攻」を説いたことで知られています。
そして、『墨子』兼愛中には、
「兼相愛、交相利。」
という言葉があります。
意訳すると「広く人を愛し、互いに利益を与え合う。」
という意味になります。
互いに思いやり、
互いに利益を与え合う。
墨子は、
自分の身内や自分だけを
特別扱いするのではなく、
できるだけ広く人を思いやり、
お互いに利益のある関係を
つくることを説きました。
これは、
私が考える「自由持ち」にも
かなり近い考え方です。
自由というと、
自分の好きなことをする。
嫌なことをしない。
自分の時間を自由に使う。
そんなイメージを
持ちやすいと思います。
もちろん、
それも自由の一つです。
ですが、
自分の自由のために
誰かへ負担を押し付けたり、
自分だけが得をして、
相手が損をし続ける関係は、
決して長くは続きません。
商売でもそうです。
売る側だけが得をする。
買う側だけが得をする。
どちらか一方に偏った関係は、
どこかで無理が出ます。
だからこそ、
自分も得をする。(嬉しい)
相手も得をする。(嬉しい)
この状態をつくることが、
長く自由でいるためにも
必要不可欠になります。
自由とは、
好き勝手に生きることではなく、
自分の選択肢を増やしながら、
相手の選択肢も奪わないこと。
むしろ、
お互いの選択肢が増える関係を
つくれるのが理想的です。
仕事でも、
商売でも、
人間関係でも、
「自分が得をするには、
相手も得をする形にできないか。」
と考える。
そうすると、
奪い合いではなく、
協力できる関係になります。
私は、
長く続く自由というのは、
こうした
プラスサムの関係の上にあるもの
なのだと思います。
自分だけが勝つのではなく、
相手にも利益が残る。
自分の自由を大切にしながら、
相手の自由も尊重する。
2000年以上前に墨子が説いた
「交相利」という考え方は、
今の時代の商売や人間関係にも
そのまま使える考え方だと思います。
「自由を長く持ち続けるには、
自分だけではなく、周りも得する仕組みをつくる。」
当たり前かもしれませんが
自由持ちにとって
とても大切な視点だと思っています。
「幸福な人生を送るために必要なものは、ほんのわずかである。」(『自省録』第7巻・意訳)― マルクス・アウレリウス
これは約1800年前、
ローマ皇帝マルクス・アウレリウスが
『自省録』に残した考え方です。
マルクス・アウレリウスは、
約1800年前のローマ皇帝です。
当時のローマ帝国は、
ヨーロッパから北アフリカ、
中東にまで広大な領土を持つ
巨大帝国でした。
つまり彼は、
哲学について考えていただけの
学者ではありません。
世界最大級の帝国を
実際に統治していた人物です。
しかも、その治世は
決して平穏ではありませんでした。
戦争。
疫病。
国内の問題。
政治的な重圧。
次々と難題を抱えながら、
巨大な帝国の最高責任者として
判断を下し続けました。
そんな人物が、
自分自身を戒めるために
書き残していたのが
『自省録』です。
もともと誰かに読ませるための
本として書かれたものではなく、
皇帝である自分自身に向けて、
「どう生きるべきか」を
何度も言い聞かせていた記録です。
これが面白いんですよね。
富もある。
権力もある。
地位もある。
当時の人間が手に入れられるものを、
ほとんどすべて持っていたと言っても
いいような人物です。
それでも彼が考えていたのは、
他人からどう思われるか。
怒りとどう向き合うのか。
自分では変えられない出来事を
どう受け入れるか。
欲望をどう制御するのか。
そして、
「どうすれば、
より良く生きられるのか。」
ということでした。
ローマ皇帝になっても、
人間の悩みから
自由になれるわけではなかった。
むしろ私は、
そこが『自省録』の
面白さだと思っています。
約1800年前、
世界最大級の権力を持った人物でさえ、
最後に向き合っていたのは
「自分自身」だったのです。
そう考えてから彼の言葉を読むと、
また少し違って見えてきます。
これを読んだとき、
私は老子の「足るを知る者は富む。」
と非常に近いものを感じました。
古代中国の思想家と、
遠く離れたローマ帝国の皇帝。
文化も違えば、
生きていた場所も違います。
それでも二人は、
「幸福になるために、
多くを必要とするわけではない。」
という、よく似た場所に
辿り着いています。
これは偶然なのでしょうか。
現代に生きる私たちは、
昔とは比較にならないほど
多くのものを持っています。
スマートフォン一つあれば、
世界中の人と話せる。
好きな音楽を聴ける。
映画を見ることもできる。
分からないことがあれば、
すぐに調べることができる。
冷暖房の効いた部屋で生活し、
遠く離れた場所にも
短時間で移動できます。
1800年前の皇帝ですら
持てなかったものを、
現代の私たちは当たり前のように
たくさん持っています。
ただ、
「幸福になるために、
あと何が必要なのか。」
と考え続けるだけではなく、
時には、
「幸福になるために、
本当にそこまで必要なのか。」
と逆から考えてみることも
大切なのではないでしょうか。
健康である。
安心して眠れる場所がある。
好きな仕事ができる。
大切な人がいる。
自分で使える時間がある。
好きなことを楽しめる。
何を幸福と感じるかは
人によって違います。
しかし、
自分にとって大切なものが分かれば、
それ以外のものを
無限に追い続ける必要は
なくなっていきます。
必要なものが少なくなれば、
それだけ自由になるための条件も
少なくなる。
私は、ここが
とても大切だと思っています。
「あなたを悩ませるのは、出来事そのものではなく、それについてのあなたの判断である。」(『自省録』第8巻・意訳)
マルクス・アウレリウス
彼が『自省録』の中で
繰り返し考えていたのは、
どうすれば世の中を
思い通りにできるかや、
どうすれば他人を動かせるか。
ということではありません。
むしろ、
自分では変えられないものと、
自分で変えられるものを
どう分けて考えるか。
そこに意識を向けています。
私たちは日常の中で、
自分ではどうにもできないことに
かなり多くの時間を使います。
人からどう思われるか。
景気がどうなるか。
会社がどうなるか。
SNSで何を言われるか。
過去に何が起きたか。
相手がどう行動するか。
もちろん、
こうしたことが
人生に影響するのは事実です。
ですが、
自分で完全に
コントロールすることはできません。
それでも私たちは、
「あの人が変わってくれれば。」
「環境が良くなれば。」
「もっと評価されれば。」
と考えてしまいます。
でも、
そこに意識を向け続けるほど、
自分の人生なのに、
自分ではない何かに
主導権を渡してしまいます。
これは「自由持ち」という
考え方から見ると、
少しもったいない状態だと
私は思います。
自由とは、
何でも自分の思い通りに
できることではありません。
そんな状態は、
現実にはほぼ存在しません。
むしろ大切なのは、
自分で選べる部分を
できるだけ増やしていくことです。
出来事そのものは
選べないことがあっても
どう受け止めるか。
どう考えるか。
どう行動するか。
そこから何を学ぶか。
次に何を選ぶか。
これらは、
自分で決めることができます。
たとえば、
仕事で嫌なことがあったとします。
基本相手の言動は
変えることはできません。
会社の方針も
変えられることは少ないでしょう。
ですが、その環境に居続けるのか。
距離を取るのか。
別の働き方を探すのか。
自分のスキルを増やすのか。
受け止め方を変えるのか。
そこには、
まだ自分で選べる余地があります。
つまり、
自由を増やすということは、
世界を支配することではなく、
自分で選べる範囲を
広げていくこと。なのです。
そしてもう一つ、
この言葉で大切なのは、
同じ出来事でも、
人によって受け止め方が
まったく違うということです。
失敗を「終わり」と考える人もいれば、
「やり方を変える材料」と
考える人もいます。
他人からの批判を
「自分の価値が下がった」と
考える人もいれば、
「必要な部分だけ拾えばいい」と
考える人もいます。
起きた出来事は同じでも、
その後の人生を変えるのは、
自分がどう意味づけるか。
という部分が大きいのです。
だからこそ、
何か嫌なことが起きたとき、
すぐに反応する前に、
「これが起こった原因は?
そして自分で変えられることなのか?」
と一度考えてみる。
これだけでも、
感情と思考を少し
切り離せると思います。
自分では変えられないものには
必要以上に時間を使わない。
その代わり、
自分で変えられることには
しっかり時間を使う。
今日何をするか。
何を学ぶか。
誰と付き合うか。
どこで働くか。
何に時間を使うか。
どんな考え方を選ぶか。
こうしたことを
一つずつ自分で決めていく。
それが積み重なるほど、
人生の中にある自己裁量権は
少しずつ大きくなります。
ローマ皇帝という、
非常に大きな権力を持った人物が、
最後に目を向けていたのが、
外の世界ではなく自分自身のあり方だった。
つまりどういう立場、どういう能力
を持っていたとしても
人間の有るべき姿はそこへ帰結する。
そういうことでしょうか?
これもまた、
「自由持ち」でいるための
大切な考え方だと思います。
最後に
以上となります。
皆様、
いかがだったでしょうか?
老子は、
欲望に支配されないことを説いた。
易経は、
行き詰まったら
変わることを説いた。
論語は、
他人との向き合い方を説いた。
孫子は、
闇雲に戦わず、
勝てる場所を考えることを説いた。
墨子は、
「互いを思いやり、
互いに利益を分かち合う。」
ことの大切さを説いた。
マルクス・アウレリウスは
幸せに生きるために
本当に必要なものは、
それほど多くないと説き、
自分では変えられないものに
心を奪われるのではなく、
自分自身がどうあるべきか。
そこに目を向け続けました。
国も違う。
文化も違う。
生きていた時代も違う。
それなのに、
残された言葉を
辿っていくと、
不思議なくらい
同じ場所に行き着きます。
自分なりに自由について
考え続けていたら、
2000年前の古典と何度も
出会っていた。
そんな感覚です。
そして、
自分の人生を、自分で選べる状態を
少しずつ増やしていくこと。
自分にしか答えを出せないことに、
大切な時間を使っていく。
そんな生き方を
していきたいと思います。
この記事が少しでも
誰かの役に立てていれば
嬉しく思います。
それでは、また
別の記事で!
MS
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